湘南営繕協会の歩み

昭和58年(1983)、湘南の街で産声をあげた湘南営繕協会。
「大企業にならなくていい。そのかわり、湘南では誰もが知っている会社になりたい」
地域第一主義という目標を掲げ、揺るぎない信念でスタッフを引っ張ってきた社長・最上重夫が、これまでの歩みを振り返ります。

 

貧しかった少年時代


私は藤沢市の鵠沼に生まれ育ちました。地元の方はご存知でしょうが、鵠沼というところは名だたる政治家や財閥が居を構えていた地域です。その中にぽつんとあった貧乏所帯、それが私の生家です。父の商売は土木建設業でした。働き者の母は、父の仕事を手伝いながら私たち5人兄弟の世話、そして出稼ぎの人たちの賄いと、休む間もなく動いていました。もちろん子供達だって、のんびりしてはいません。私は小学生の時から家業を手伝っていました。高校にあがる頃には集金もして、いっぱしの労働力になっていましたよ。いまの若い人には考えられないでしょうけど(笑)。

高校生の時には「自分は将来、事業家になるんだ!」とすでに決めていたので、授業のない日や、夕方から夜にかけての毎日の家業の手伝いは、苦になりませんでした。大学生になっても、午前中は工事現場でユンボを動かし、その足で大学へすっ飛んで行って午後の授業にぎりぎり間に合ったり、深夜の道路工事に連夜参加し、朝の通学時に居眠りをして電車を乗り過ごして遅刻したり・・・そんな勤労学生の暮らしの中で学んだことは数多くありました。

 

貧しかった少年時代

 

事業家になる夢に向かって歩んだ日々


大学を出た私は建設会社に就職しました。私の将来の目標は事業家になることでしたから、10年経ったら会社を去ると心に秘め、この10年の間に会社にどれだけ貢献でき、自分の糧となる経験を積むことができるかが勝負だ、との思いで、必死で働きました。目標があるってすごいことですね。10年後、私は当初の計画通り、会社を辞めて自分で会社を興すことになったのです。

はなむけに、勤めていた会社の先輩がアドバイスをくださいました。それは、その後の湘南営繕協会の進む道を決定づけた、大きな大きなアドバイスでした。先輩はこう言ったのです。 "最上君、君はいきなり湘南建設会社なんて創っちゃいけないよ。それよりも営繕を主体とした会社を創りなさい。営繕なんて、そんな小さい、細かいこと、と君は思うかもしれない。しかし、そこを大切にすることが、クレーム産業と言われる建設業界にメスを入れることになるんだよ。"私はハッとしました。ちょうどその頃、新聞で見たアンケートで、「前回依頼した建設会社には頼まない」と答えた人が70%にもなることを知っていたので、先輩の言葉はなおさら心に響きました。そして私は有難くその忠告を受けることにし、新しい会社を『湘南営繕協会』と名づけました。

 

事業家になる夢に向かって歩んだ日々

 

この街に必要とされる会社になりたい


営繕という仕事は、新築や増築も含みますが、一般に受け取られているニュアンスとしては、メンテナンスや修理という色合いの濃いものです。かかる経費に対して、あまり大きな利益は見込めません。

妻の眞理子と私の貯金をはたき、総勢5人で始めた会社は、スタートから地道な経営が続きました。しかし、人が暮らしていく上で、新築よりも営繕の方がより重要なはずだ、という信念は揺るぎませんでした。"たとえば業界最大手の建設会社が潰れても、この町のAさんという家族は困らない。でも、湘南営繕協会が潰れたらたちまち困るぞ。町の人たちのためにも、俺達が頑張らなきゃいけないんだ"。そう言って自分たちを励ましました。

また、どんなに仕事が欲しくても下請け仕事はしない、と私は決めていました。両親が下請けや孫請けの仕事をし、誠実に仕事をすればするほど自分たちの首がしまっていく状況を、いやというほど見てきたからです。湘南営繕協会は、直接受注して自社で責任を持って施工する。これは設立当時から変わっていない、会社の方針です。

 

この街に必要とされる会社になりたい

 

受けとめてもらえた『営繕の心』


そんなある日のこと、私と妻は近所の地主さんに呼ばれました。その地主さんは、私たちの家の近所に住む方でした。そして私たちに、自分の土地にアパートを建ててほしいとおっしゃったのです。なぜ私たちに?という質問に、その方はこう答えられました。
"私はあなたたち夫婦を近くで見てきました。あなたたちは若いけれど、よく生きている。そういう人が建てたアパートなら間違いがないと思ったのです"
有難かったです。本当に有難かった。先輩に教えられ、実行してきた『営繕の心』が通じたのですから。

それからというもの、この地主さんは「住」に関することは何でも相談して下さるようになりました。そしてその頃から、地道な努力が実を結んで、様々な依頼が湘南営繕協会に寄せられるようになりました。

苦楽を共にしてきたパートナー、眞理子と

 

「住」の世界の奥深さに魅せられて


”地域の人たちから必要とされる存在になりたい"。その思いだけで走り続けてきた私達。おかげさまで、いまでは子供達が通う小学校や、市民センター、公民館なども建設させていただけるようになりました。通常なら大手ゼネコンが受注するような仕事を任せていただけることに心から感謝するとともに、これからも地域に密着した企業ならではの視点で、実も心もある建物づくりをしていくことを肝に銘じています。

妻の眞理子が関わっている「NPO法人CoCo湘南」は、高齢者が主体的、前向きに人生を生きていくことをめざし、グループリビングの拠点を築いていこうとするものです。こちらも地域のみなさんの共感を得て、その輪がひろがりつつあります。

人が生きる上で離れることができない「住」という世界。そこで育ててもらおう、人間にしてもらおうと、無我夢中で走ってきましたが、年を重ねれば重ねるほど、未知のことがたくさんあることに気づくようです。謙虚に学ぶ姿勢を失わずにいたいと思います。

御所見市民センター

▲地域交流の拠点として2009年に完成した御所見市民センター

 

次世代の湘南営繕協会へ


いま湘南営繕協会では、次の世代が着実に育ってきています。息子の清水大樹に最上邦明。娘の清水恵子と最上美樹。彼らはいま、湘南の人たちに住んでもらいたい家を、暮らし方まで視野に入れて提案していこうとしています。

テーマとしているのは『オーガニック』。

地球上の限りある資源を大切にし、自然と共生していくことがコンセプトだと言います。湘南の自然を愛し、そこで暮らすことを選ぶ人たちならきっと思いは通じるはず、という信念を、彼らは持っています。

私は私で、これは『営繕の心』と同じだな、と受けとめています。大切にメンテナンスして、できるだけ長く住み、無駄なゴミを出さない家づくりを私はしてきましたが、それはそのままオーガニックの考え方に通じるものです。
会社の根底に流れる精神を、若い人達がちゃんと受け継いでくれていることを、嬉しく思います。

これからの家づくり オーガニカの部屋 も併せてお読み下さい

湘南営繕協会の次代を担ってほしい若い二人

 

大相撲藤沢場所の勧進元に


最後にもう一つ、私が打ち込んでいるものの話をさせてください。それは、大相撲と献血運動です。「住」に関わる会社が、どうして相撲と献血なの?!と思われるかもしれませんが、少しお耳を拝借させてください。

話は私が大学の3年生だった頃に遡ります。偶然、春日野部屋の床山さんと知り合い、その方の紹介で春日野部屋を訪ねる機会に恵まれました。当時の春日野親方(第44代横綱・栃錦清隆)と女将さんにはお子さんがなく、私を子供のように可愛がってくださるようになりました。社会人になってからも交流は続き、私が会社を興してからも講演会の依頼などにも気軽に応じてくださっていました。

そんなある日、講演会場からの帰り道に親方からこう言われたのです。
"最上君、藤沢で大相撲の地方巡業をやってみないか。僕が保証人になるから"。
大富豪でもない私が、大相撲の勧進元になるのは大変なことです。もし興行が失敗したら、親方にも大変な迷惑がかかります。それでも、私を見込んでそう言ってくださった親方の熱い気持ちと信頼感は、私の気持ちを奮い立たせました。
"よし、やってやる"。
思えば地域に貢献したいというのが、私の会社設立の目的でした。それなら、子供からお年寄りまで喜ばせることができる大相撲くらい、それにふさわしいものはないのではないでしょうか。

平成2年4月、大相撲藤沢場所は無事誕生し、以来、藤沢市の春の恒例行事として定着しています。春日野親方がその年の1月に、藤沢場所を観ることなく他界されたことだけが残念ですが、きっと天国から"うんうん、よくやった"と言ってくださっていると、私は信じています。

大相撲藤沢場所の勧進元に

 

 口で言うよりもまず、態度で示す


大相撲とほぼ時を同じくして始めたのが献血です。初めは自分が献血するだけだったのですが、平成18年からは大相撲の会場でも、皆さんに協力を呼びかけるようになりました。大相撲には障害を持つ子供たちやお年寄りを招待するのですが、そのおかげでより様々な方面の人達と接点ができ、世の中には輸血用の血液がまだまだ不足していることを知りました。私たちにできることで、誰かの命を救うことができるなら幸いなことです。私もこれまで仕事をしてくる中で、目に見えない人の助けを無数に受けているはず。だから、少しでもお返しできたら、という気持ちで、これからも献血を続けていくつもりです。

貧しかった少年時代、自分は何のために生きるのか、そしてどんな人間になればいいのかを、真剣に考えました。自分なりに答えを出してきたのが、ここまでの歩みです。それが正解かどうかは、私にとってあまり意味はありません。自らの問いに対して、逃げずにまっすぐにぶつかってきた。そのことだけが、私にとって誇れること。そして、育ててくれた両親への恩返しだと思っています。

孫たちに囲まれて

 

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